再び あの「焼場に立つ少年」に寄せて

今日は終戦記念日。

 

毎年、この時季になると、戦後生まれの身とは言え、知らぬ存ぜぬ、関係ない、では済まされない心境で、戦争について考えさせられます。

私なりの反戦手段として発信をしていますので 今年も また おつきあい下さいませ。

 

 昨年は、米軍の従軍カメラマン ジョー=オダネル氏の秘蔵写真のうちでも最も知られている一枚、「焼場に立つ少年」についての考察を記しましたが、さらに詳細を知って、なるほど、そうだったのかと それこそ「閃光」に打たれたような衝撃を受けました。

 

 長崎に原爆が投下された直後、背中に幼い弟を背負って裸足で立ち尽くす少年の写真です。

首を後ろに垂れた弟は既に絶命していて、少年は 犠牲者が次々と焼かれる火葬場の前で、弟が焼かれる順番を待っているところです。

その頑ななまでに結ばれた口元には血がにじみ、持っていきばのない悲しみと恐怖に必死で耐える目が 見る人の心を打ちます。

おそらく 彼の親もやられたのでしょう。

この情景は 彼の年齢では許容を超えた残酷さです。

弟を焼く場所に 気丈にも足を運んだ少年は まだ10才前後と思われます。

この少年を見つけ 必死でカメラを向けたオダネル氏でしたが、軍の規則で、日本人や 被災者などを撮影することは禁じられていたそうです。

彼は 私用のカメラで 密かに 彼ら被爆者の惨状を写し 帰国後は 家族に「絶対に開けてはならない」という箱に封印したそうです。

しかし、オダネル氏は 原爆投下を肯定したり、「ざまあ見ろ ジャップめ!」などと言う言葉が飛び交う国内の感情に段々といたたまれなくなっていきます。

さらには、彼自身も放射能にやられ 身体を蝕まれていきました。

「これは間違っている。真珠湾攻撃が先だと言っても だからといって これを実行したことは絶対に許されないことだ」

その気持ちが抑えられなくなり、ついに 何十年もの間 封印してきた長崎での写真の入った箱を開けたのでした。

それは とても勇気の要ることだったでしょう。

そして、何度も日本に足を運んで あの少年を探し回りましたが、ついに 彼を見つけること叶わいませんでした。

83歳で 狂おしくたぎる戦争への憎しみを抱えたまま その一生を終えました。

彼は どうしても あの少年に謝りたかったし、労いたかったのではなかったでしょうか。

私の推測ですが、あの少年を さんざん手を尽くしても探し出せなかったということは、原爆病というおぞましい病に没したのかも知れませんね。

どうあっても いかなる理由や法則があろうとも、戦争は絶対にしてはならないということだけは確かです。

私の老母は、福井空襲での悲惨過ぎる体験談を 私に何度も何度も語って聞かせてくれましたが、年老いてからは それを語る度に泣くもので 痩せた肩を抱きながら 私もなす術はなく、できることはただ こうした文字による発信で 反戦を訴えることだけなのです。

順番が来て 少年の背中から 赤子を下ろし、係員が 焼けた灰に その遺体を置くと、ジュ〜〜っという音がしたそうです。

それを聞きながら  それを見ながら 少年は 何を思っていたのでしょうか。

弟と最後の別れを終えると 彼は 黙ったまま その場を去っていったそうです。

その後 彼がどうしていたのか、とても気になるところです。

絶対に幸福になって居て欲しい。

この無慈悲で過酷な体験を糧に変えて たくましい大人に成長していて欲しい。

そう祈らずにはおれない私です。

 

なお、この写真を撮影したオダネル氏の遺志は 息子に継がれて 彼もまた戦争抑止に向けた活動をしているそうです。

オダネル氏の封印された写真は 日本でも公開されて、多くの人に戦争の過ちを伝えたそうです。

彼は 軍の命令で長崎に入るまでは むしろ 人類初の原爆の結果に期待すらしていたことでしょう。

ところが その 想像を絶する情景を目の当たりにして 心が変わったそうです。

身体を「大破」され、その顔までが無くなった人が その目であろう部分から涙を流している姿も 彼を直撃したに違いありません。

広島、長崎、沖縄、そして 多くの戦没者の死を決して無駄にしないためにも、私なりの手段で 戦争反対を呼びかけていこうと思っています。

それは、我々の愛犬 愛猫の命をも守ることにつながるからです。

うかれようと 騒ごうと それはそれで楽しんで大いにけっこうでしょう。

しかし 静かに 平和を考え 祈るひとときも大切にしたいと思います。

亡夫の霊だけでなく、戦没者の冥福を祈ります。

 

 

 

|店主のつぶやき|18:38| - | 2018.08.15 Wednesday |